G-ZAWA’s Diary

じーざわの日記

鬱と希望とエンタメ病

じーざわです。




躁鬱というのがあって、



はしゃぐ時はものすごく元気で


きゃあきゃあと喚き散らかすんだけども



いきなりしんと静まってしまって



死にたいとか最悪だとか呟き始めては



うずくまったりぼうっとしたりする




まあ、この表現は少々大袈裟ですが




僕もずーんと気分が落ち込んで
しばらく何も手につかないなんて事があります。




そんな時、私がよく考えるのは


いきなり朝目覚めたら

街にゾンビが溢れかえっていて

大パニック




とか



隕石が落ちてきて

学校が大破した

大変だ



とか



僕の目からビームが出て

うっかり嫌いな奴を殺してしまった


どうしたもんかなあ


とか




ある種の現実逃避ですが



このようなものを


とある作品の登場人物が


「エンターテインメント症候群」


と名付けました



いや、

多分僕が拡大解釈している部分も

少なからずあるんですが



大体こんな意味でした。



人はどこか心の片隅で

何かしら常軌を逸した出来事が起こって欲しいと

ちょっぴり期待してるんじゃないかと
思います。


頭では


「そんなこと起こりっこない」


と分かっているつもりでも、


宇宙人や未来人や

幽霊や妖怪が


いてほしいな

いたら、楽しいだろうな



そう思ってしまう



だからこそ、


宇宙人や未来人が登場する創作物や、



幽霊や妖怪を特集するテレビ番組などが



この世から絶えないのでしょう




夜に墓地や霊園を散歩して

帰り道、うっかり不注意で事故を起こした


それを


「おばけの祟りだ」


とか言ってみたりする

その方が面白いから




ええ、実は私も



この地球を調査するために

はるばる遠くの銀河からやってきた

宇宙人なんです



とか言ってみる



その方が、面白いでしょう?





今日はここまで、またいつか。

人と胡蝶とレゾンデートル

じーざわです。

 

 

胡蝶の夢という説話があります。

 

 

ざっくり説明すると、

 

 

 

 

夢で、自分は蝶になっていた

 

目が覚めたら、いつもの自分がいる

 

 

はて、

 

 

実はほんとうの自分は蝶であり、

 

今の自分は蝶の見ている夢なのではなかろうか

 

 

 

という話です。

 

 

 

荘子は、

 

俺は別に蝶でも荘周でもどちらでも構わん

 

と思っているようですが

 

 

 

僕は

さっさと花の蜜を吸いに行きたいもんだ

 

と思います。

 

 

 

尤も

 

目覚めたら蝶だったなんてことはないでしょうけど、

 

 

目覚めたら犬とか猫になっていたら

 

楽しそうだなと思います。

 

 

 

さて

 

 

仮に今僕がこうしてブログを書いているのが

 

 

何か別のものが見ている夢だとして、

 

 

果たして僕は何のために生きているんでしょうか?

 

 

 

 

いえ、病んでいるとかではなくて

 

夢ならばいつか覚める

 

じゃあ

 

何かしたって無駄なんじゃないの

 

 

という問いかけです

 

 

 

これに関してはどこかで同じような事を書いたのですが

 

 

どうせ誰かの夢なんだったら

夢らしく気ままに過ごしてしまおうぜ

 

 

と 

 

割り切ってそれなりに

 

夢を生きていればいいんじゃないかなと

 

思います。

 

 

昔書いたこととちょっと違うかな

 

 

ほんの数ヶ月前は

 

 

 

「どうせ誰かのみている夢ならば

 

その誰かが目覚めた時に

 

 

いい夢を見たな

 

 

と思ってもらえるような

 

夢の過ごし方をしてみませんか」

 

 

 

と、言ったのでした

 

つまり、

 

今の自分がどうであれ

 

とにかく頑張ってみなさいな

 

 

という感じ

 

 

今の僕は

 

頑張るのをやめてしまったから

 

 

もう少し甘くて

 

 

 

逍遥遊は難しくとも

 

 

 

 

栩栩然として

人間なり 

 

 

なんて風に

 

 

ま、考えすぎは体に毒ですね

 

 

このままだと

僕も薬を飲んでしまいそうですから

 

 

 

 

今日はここまで、またいつか。

ヒモとニートとGハンター

じーざわです。


歯磨きの最中、

鏡の奥に異常な黒い点を発見したので

後ろを振り返ると


イエグモが1匹。


朝に蜘蛛を見ると
幸せになるとかならないとか、

犍陀多の話を知っているので見逃したが、


どうもおかしい。


最近、
家で蜘蛛を見かけることが増えたのだ。


一昨日も姿見の近くに、

一昨々日も1階の廊下に現れ、

まるでここの住人のようだ。


それだけではない。


一昨々日、

一昨日、

それから今朝と、


その影はどんどん大きくなっているような気がしたのだ。


別個体でないとすれば、
それは明らかに肥えていた。



これが何を表すか。



我が家には
彼が住まうべき環境が整っているということである。


人間が齎した
自然から逸脱した環境でのんべんだらりと過ごし、

食べ物にも困らず、


なんと幸せなことか。



尤も、

食い物に関して彼と我々は

利害が一致しているから見逃しているが、



それがなければ
良くても追放であろう。


と、

ここまでつらつらとやった所で、

私はひとつの結論を導き出した。


が、

これは、
モラトリアムという研修期間を
浪費する人種ではなく


もう3,4年先の話であるから、
ここで述べるのは控えたいと思う。




だが、1つこの話にオチを作るとすれば、



"働かざる者食うべからず"


と、これに尽く。






今日はここまで、またいつか。


*本文は、過去のツイートに加筆及び修正を施したものです。